国家権力

?「あーちょっと止まってお兄さん」

 

ぼく「はい」

 

?「ちょっとねー防犯登録確信させてくれるかな」

 

ぼく「はい」

 

?「お名前は」

 

ぼく「立花」

 

?「はーい、いつ頃購入しました?」

 

ぼく「3月」

 

?「ククラシヌガフイェインウガラメウイヴザツ」(無線に喋る)

 

?「ちょっと待ってね」

ぼく「(携帯をいじる)」

 

?「おっパズドラ 若い子ってやっぱみんなパズドラやってるの?」

 

ぼく「オウフwwwいわゆるストレートな質問キタコレですねwww

おっとっとwww拙者『キタコレ』などとついネット用語がwww
まあ拙者の場合パズドラーとは言っても、いわゆるソシャゲとしてのパズドラでなく

メタSF作品として見ているちょっと変わり者ですのでwww
ダン・シモンズの影響がですねwwww
ドプフォwwwついマニアックな知識が出てしまいましたwwwいや失敬失敬www
まあ萌えのメタファーとしてのイシスは純粋によく書けてるなと賞賛できますがwww
私みたいに一歩引いた見方をするとですねwwwポストエヴァのメタファーと
商業主義のキッチュさを引き継いだキャラとしてのですねwww
ソニア=グランの文学性はですねwwww
フォカヌポウwww拙者これではまるでオタクみたいwww
拙者はオタクではござらんのでwwwコポォ」    

?「貴様は~~~!!だから2ちゃんねるで馬鹿にされるというのだ~~~!!この~~~!!」(首を絞める)

 ぼく「ぐえぇ~~~!!悪霊退散悪霊退散!!」  

   ?「まあいいw行け!w」(敬礼)            

 ぼく「敬礼!出た!敬礼出た!得意技!敬礼出た!敬礼!これ!敬礼出たよ~~!」

 

 

 

神喰 〜天界の血戦〜

文化祭二日目、打ち上げ、その二時間前
私は思考していた
周りではいなほ杯なるものの発表に声をあげる学生たち
歓喜と悲哀が渦巻く中、私は思考を止めなかった
いや、止めることが出来なかったというべきか

打ち上げに『あれ』が 来るーーーーーーー


正確に来ると決まったわけではない
しかし『それ』は必ず来る

【『それ』は矛盾の上に立ち、私たちを見下ろしてくる】

その事を考えると吐き気に似た形容しがたい感情が私を
襲うのだ
吐き気からの逃げ道を探すために私は自然と後夜祭へ足を運んでいた
思考を止めたら吐き気に喰われてしまいそうな気がして

【『それ』は全能である
全能が故に人は『それ』を畏怖する】

『それ』を撒くという結論に至るまでそう時間はかからなかった
ただその事を実行に移すこと、移そうとすること自体が極めて罪深く、私を罰で蝕む

【『それ』は道であり地平である
付いてくるのではない、私たちがそこにいるのだ】

汗が込み上げる
しかし前に進むしかない

生きるために神を欺くのだ
罪を打ち崩し、罰を穿つのだ

【私たちが話したのではない
『それ』が聞いたのだ】

実行する
しかし二人、(仮に平澤と宮下とする)が『それ』に食われる
二人を見捨てないほど私は『それ』を甘くは見ていなかった
瞬時に決断する
二人を切り捨て、ボーノイタリアーノへ向かう、と

偽善と慢心を足場に走る、『それ』から逃げる
距離にして20m
そして『それ』と二人と私たち10数人を横断歩道が切り裂く
思いがけない僥倖
私は対岸から歓喜に満ちた表情で『それ』を見る

瞬間、戦慄

『それ』が走り去る
駅とは全くの別方向へと
そして全てを理解する
何を理解したかはわからない、ただ理解した、という感情と共に罰が私を蝕む

そして私は気絶した
意識が10月の夜空に溶ける、刹那
確かに聞いた














『逃がさない』

















【『神』は七日間で世界を作り、一日で世界を滅ぼした】

文化祭マジックに関する記述

文化祭という一つの舞台へ向けてクラス全体が一丸となる中で、ある特殊な、部活動で得られる絆とも似た、"一体感"というものが生まれる。
その"一体感"はクラスの中に充満し、あるいはクラスの枠を超え学校全体を包み込む。
奇妙な"一体感"が充満するこの校内の状態を、仮に『文化祭ムード』と名付けよう。
文化祭ムードにあてられた生徒たちには様々な変化が表れる。
異様なハイテンション、仕切り屋の台頭、野球の流行エトセトラ…
多面的に表れる変化の中でも『男女交流の増加』、というのが時間が経つにつれ際立ってくる。
舞台系の出し物ならダンスや演技の練習。飲食系なら商品の試作、なんなら女子生徒の家で、なんてこともあるだろう。もちろん装飾の準備もしなければならない。その中で行われる男女の会話というのは普段の学校生活より大幅に円滑に進むものなのだ。
無論、業務的な会話も増えるが、それ以上に雑談に発展することも増え、他愛もない会話が人間同士の絆を生む。
男女間の絆があって、生まれるべくして生まれるのが恋愛感情であろう。加えて文化祭ムードが生む女子生徒の無防備な姿、増えるボディータッチ。これらが男子生徒の恋愛感情を加速させるのは言うまでもない。
(これは男女を入れ換えても同じことが言えるだろう。)
そうして文化祭ムードにあてられた、いや呑まれたというべきか、彼ら(彼女ら)は遂に告白を実行する。そしてなんといってもその相手も呑まれた者である、成功率は非常に高い。
文化祭ムードに呑まれた者たちによる告白から成功の一連の流れを、世間では『文化祭マジック』と呼ぶのだ。

これだけを見て、まさしく魔法とでも言うように男女が結ばれるように思うかもしれないが、そういうわけではない。
『文化祭ムード』とはあくまで、背中を押すことしかしてはくれない。具体的に存在するわけではないのだから当たり前である。しかしそれを理解せずに、『文化祭ムード』に身を任せ、告白して玉砕する連中がいることも忘れてはならない。

顔や性格、コミュニケーション能力などを『土台』とするならば、『土台』の上に『文化祭ムード』を置いて初めて『文化祭マジック』が起こりうるのだ。無い『土台』の上のどこに『文化祭ムード』を置くというのか。
『土台』はなにも先天性のものばかりではない。身だしなみや清潔さ、気遣いなどは当人の努力しだいでどうにでもなるはずなのだ。
「『文化祭マジック』が無かった」などとという見当違いも甚だしい文句を宣う連中は果たして『土台』を作ろうと、あるいは固めようとしたのだろうか。
まして「『文化祭マジック』が無かった」というのは告白をした立場においての発言なのだろうか。
もし、それが「文化祭だというのに誰も自分に告白しなかった」ということの言い換えなのだとしたら、とんだ愚か者であるという他にない。更に言えばそんなことを言う者に『文化祭マジック』は決して訪れない。

ここで私は『土台』を『資本』に置き換えてみる。
恋愛の限りにおいては、資本主義は絶対である。
資本を元手に更なる資本(彼女、彼氏)を得るのだ。
では資本のない極貧の労働者はどうすれば良いのか。

嘆いても平等は訪れず、恋愛に社会主義はない。